山形・寒河江 の 蕎麦処・慈恩寺そば [ 山形県村山地方 ]
板そば( 税込 900円 )
香り | ☆☆☆ |
太さ | ★★★ |
出汁 | 普通 |
辛汁の量 | 不明 |
蕎麦湯 | 不明 |
薬味・小鉢など | ネギ( ワサビなし ) |
粉の産地 | 不明 |
製粉 | 不明 |
割合 | 不明( 三七? ) |
製麺 | 不明 |
板そば を初めて食べたのが同店。麺の太さに面食らった。香りは無く色は普段食べる乾麺に比べてもかなりの どす黒。ものすごい 極太 で、芯すら感じる程の茹で加減、顎が疲れてしまいそうな コシ が印象的だった 。 辛汁 が絡みにくいため、麺の味がしっかり現れる。もぐもぐ、じわ〜っと蕎麦の味、これはこれで、こういう文化なのだなと初納得した。〈 みちのく SOBA 紀行・山形編 〉というサイトにある感想にも同じく納得した。
【 板そば 】
山形県内陸部で広く食べられる蕎麦のひとつ。農作業の共同作業や寄合などの集会後に、木で作られた長方形の箱に薄く均一に盛られ、振舞われていたのに由来するらしい。水分の吸収は せいろに盛られるより適していると言われる。
茶 | 不明 |
他メニュー一例 | 板天そば 1,500円 |
価格帯 | 600〜2,000円 |
( 訪問は 1993年頃だったか。)さらなる詳細な記憶の復元を試みるため ググって みるも、由来などの何もない。ストーリーも解説も出て来ない、取材情報もない。店名に 本山・慈恩寺 の名を拝するも確実に「 寺方蕎麦 」 ではないと見える。どちらかと言えば、街道縁の 「 門前蕎麦 」 だ。
寺方蕎麦・門前蕎麦
「 寺方蕎麦 」とは、寺院にて僧侶が精進料理として、あるいは客や檀家への振る舞い、時には貧民救済料理として食べられていた 蕎麦料理 のこと。 深大寺蕎麦、妙興寺蕎麦 、永平寺蕎麦 が有名。 山形・寒河江の『 慈恩寺蕎麦 』や、慈恩寺 48坊のひとつ 『 東光坊蕎麦 』もその一角を成していたと言われる。
イメージ
一方、寺社仏閣 の 門前町 で、参拝客に蕎麦を振る舞う " 店 " が多かったのは、寺方蕎麦 として寺社で蕎麦が食べられていた食文化が影響している。 対して『 門前蕎麦 』と言われる。
イメージ
立地 | ロードサイド( 県道 26号( 寒河江西川 )線・六十里越街道 沿い ) |
店内外 | 商家改築風、伊万里 蕎麦猪口 コレクション・古民具展示 |
卓上 | 不明 |
座席数 | 不明、結構ある |
サービス | 不明 |
BGM | なし |
もしかすると『 手打ちそば 東光坊 ( 寒河江市大字慈恩寺867 ) 』 にはルーツがあるのかも知れないが、同店は外観的にも雰囲気的にも「 寺方蕎麦 」のルーツを感じさせてはいない。しかしいずれにせよ両店とも、味に絶大な支持を受け、当の名刹・慈恩寺 自身よりも高く全国区に名を馳せていることが事実であることは確かだ。*1
最上院3つの寺の下に、清僧( 出家した僧侶 )・修験( 山伏 )の 48の坊がいて、さらに雑務を担う一山役や寺侍と家来衆のいる巨大祈祷寺院 *2 が、慈恩寺。現在は 3カ院17坊 となっているが、地図を見るだけでも、往時を彷彿とさせる。
六十里越街道 | 慈覚大師( 円仁 )も通った 修験の道
ところで。 同店の脇を走る『 寒河江西川線 』 *3 は、六十里越街道 *4 という、奈良時代( 710〜794年 )にはすでに利用されていたことが認識されているかなり歴史の古い大街道である。 陸奥国・多賀城 と、 出羽国・秋田 を結ぶ要路だった。 *5
慈恩寺 の 開山は、伝 : 行基 によると 724年( 神亀1年 )。 東大寺( 奈良県 )の開山を命じた 聖武天皇 に、行基がこの地が景勝であると奉上、よって746年( 天平15年 )、インドの婆羅門僧正が開山する運びとなった。行基も婆羅門僧正も、多賀城 *6 を経由して到着しただろう。
また、860年*7、 慈覚大師( 円仁 )に、清和天皇が 山形・立石寺 の開山を指示している。 自然信仰の山・出羽三山 山麓を経由する難所の多い道であることも手伝って、修験の道 としての性格を強めていったのだろう。こんな東国の山奥の道でも、遥か彼方の時代から様々な往来があったことが想像できる。
戦国時代 になって始めて軍馬が通れるよう整備されたらしい。沿道には 名 上杉景勝 や 直江兼続、伊達政宗・最上義光 らが加勢した小競り合い・大競り合いによる史跡も残る。その後、平和な 江戸時代 を迎えるともう 出羽三山詣出 の者しか利用しなくなった。「 田麦俣 」の 多層民家 は、民宿兼業であった。参詣者はそこで枕を借り、出羽三山へ詣出て、また山形方面へ戻るのが常道だったとか。この頃になると県境を越える交易者なぞもいなくなり、峠辺りは廃道のようになっていったらしい。
田麦俣地区の多層民家。
またさらに時代は下って、戊辰戦争 が起きると、国境を越えて( おそらく宮城の峠側から )官軍が襲来、沿道の何処もかしこもが戦火の舞台に。特にこの寒河江辺りが激戦地だったというのは容易に想像出来る。領民の加担をも求められ、大変だったようだ。
自然神から仏教まで、救いを求めやすい土地柄なのが幸いしているかどうかは分からないが、寒河江は古くから朗らかで大地の恵み豊かな地域である気がする。現在に至っては、高級種・佐藤錦 を始め多くのサクランボ が生産される地として全国的に有名だ。痩せた寒冷地に蕎麦と言うイメージからはほど遠い。
創業 | 不明 |
住所 | 山形県寒河江市大字八鍬264-2 |
Site | 〈 Facebook 慈恩寺そば 〉 |
ちなみにだが、2021年5月1日、慈恩寺の麓に、蕎麦カフェ が併設された総合案内移設、慈恩寺テラス がオープンしている。
最近は、寺社仏閣の総合案内施設に、 蕎麦カフェ が併設される傾向が多い気がする。
宮城県岩沼市の 金蛇水神社 が、比較的記憶に新しい。
金蛇水神社・Sando Terrace *8 が出来る前は、下記が地味な蕎麦屋として開業していた。
※ 1990〜2000年頃訪問の記憶に後日情報付加して起稿。
***
*1:飲食・初投稿当時。
*2:江戸時代までは、3カ院48坊だったが、明治になって御朱印地( 将軍から安堵された所領・約2800石 )がなくなり、現在の3カ院17坊となっている。
*3:国道112号戦の旧道と思われる県道26号線。
*4:このワードをググると、福島県只見町( 南会津郡 )と新潟県魚沼市の境が挙がってくるが、そちらは『 峠 』。街道はこちら。同じ名前で違い地域の名前だが、どちらもあまりにも急峻で気の遠くなる山道であることを意味しているのたとか。
*5: 山形県内は、 山形市〜寒河江〜月山〜鶴岡 で繋がっている。
*7:平安時代、貞観2年。参考までに、貞観地震大津波は、貞観11・869年、5月26日だとか。
*8:2021年4月15日開業。